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「広重」と署名された錦絵は、初代のほかに、娘婿の二代広重と、そのあとを継いだ三代広重が描いています。井上和雄編『浮世絵師伝』(1931年)に記された三人の号・落款・活動期間を整理し、お手元の作品がどの広重かを絞り込む手がかりにしました。
結論
「広重」の署名だけでは初代と決められません。初代は寛政9年(1797年)生まれ、安政5年(1858年)没。二代(初名 重宣)は安政6年(1859年)に「二代一立斎広重」を継ぎ、慶応元年(1865年)に安藤家を去って「立祥」と改名しました。三代(初名 重寅、のち重政)は慶応元年から一立斎と「広重」を襲い、明治27年(1894年)まで描きました。見分けの軸は三つです。号(一幽斎・一立斎・立斎・立祥)、改印の形式(安政5年以前の日付印なら初代)、画題(横浜絵・開化絵・明治の東京名所なら三代)です。
どの広重か分からなければ、写真で確認します
画面全体と、署名・画面の隅の印の拡大写真を送っていただければ、初代・二代・三代のどれか、版の時期、買取の目安を査定担当が確認してお返事します。額に入ったままでも構いません。
査定料・相談料は無料です。売るかどうかは査定額を見てからお決めください。お断りいただいても費用はかかりません。
出典は、井上和雄編『浮世絵師伝』(渡辺版画店、1931年)の「広重」の項です。初代・二代・三代の三人がそれぞれ立項され、生没年・画系・作画期・号・居所がまとめられています。井上和雄(1889–1946)は浮世絵研究誌の編集に携わった研究者で、同書の記述は内田実の広重研究や雑誌『日本及日本人』の記事を参照しています。 原本は国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧できます(125〜127コマ)。井上和雄の著作は日本では著作権の保護期間が満了しています。本記事は同書の記述を現代語で整理し、査定で見る点を加えたものです。
初代広重は安藤氏、幼名は徳太郎、元服後は徳兵衛と称しました。文化6年(1809年)、13歳で両親を相次いで亡くし、八代洲河岸の定火消同心という家職を継ぎます。文化8年(15歳)、豊国への入門を望んで果たせず、歌川豊広の門に入って「広重」の名を与えられ、翌9年に歌川を名乗ることを許されました。
号は時期によって変わります。はじめ一遊斎、のちに一幽斎と改め、天保2年(1831年)晩夏以後(内田実の説)は幽の字を廃して一立斎としました。ただし印章には、その後しばらく旧号の「一幽斎」を用いています。印文に「一粒斎」とした例もあります。嘉永3年(1850年)頃、一立斎の号を講談師の文庫という人物に与え、以後は単に立斎と号しました。狂歌号は東海堂歌重、戯画名は歌重、春画名は色重です。
天保3年(36歳)に家督を仲次郎に譲り、同年秋、幕府から禁中への八朔御馬進献の一行に加わって東海道を往復しました。この旅の印象から生まれたのが保永堂版「東海道五十三次」です(内田実の説)。住まいは八代洲河岸から天保3年に中橋大鋸町へ、弘化3年に常盤町へ、嘉永2年夏に中橋狩野新道へ移りました。安政5年(1858年)9月6日、流行したコレラにかかって62歳で没します。「名所江戸百景」の完成を見届けたかどうかという時期でした。
井上は初代の作画を五期に分け、代表作を挙げています。
| 区分 | 時期(年齢) | 主な作品(判型) |
|---|---|---|
| 第一期 美人画中心 | 文化11年頃〜文政9年頃(18〜30歳) | 今様子宝遊び(大判竪)、風流五ツ雁金(大判竪)、外と内姿八景(大判竪、4枚揃) |
| 第二期 風景画準備 | 文政10年頃〜天保2年頃(31〜35歳) | 東都名所拾景(中判竪)、東都名所(大横、10枚揃) |
| 第三期 風景・花鳥画新興 | 天保3年頃〜天保7年頃(36〜40歳) | 東海道五十三次 保永堂版(大横、55枚揃)、近江八景(大横、8枚揃)、京都名所(大横、10枚揃)、江戸近郊八景(大横、8枚揃)、牡丹に孔雀(大短冊)、木蓮に鳥(中短冊) |
| 第四期 風景画円熟 | 天保8年頃〜弘化3年頃(41〜50歳) | 木曾街道六十九次之内(大横、広重47図、ほかに英泉画23図)、甲陽猿橋之図(大竪2枚継)、浪花名所図会(大横、10枚揃)、諸国六玉河(大横、6枚揃)、江戸高名会亭尽(大横、30枚)、金沢八景(大横、8枚揃) |
| 第五期 風景画余力 | 弘化4年頃〜安政5年頃(51〜62歳) | 東海道五十三次(間判横55枚 江崎屋板、中判横56枚 佐野喜板、大横55枚 丸清板)、東海道張交図会(大竪、伊場仙板12枚・泉市板14枚)、六十余州名所図会(大竪、69枚揃)、武陽金沢八勝夜景・木曾路之山川・阿波鳴門(各大判三枚続)、名所江戸百景(大竪、118枚揃)、絵本江戸土産(中本9冊、第10編は二代広重筆) |
査定で多く拝見するのは第三期以降の風景画です。保永堂版の東海道は第三期、六十余州名所図会と名所江戸百景は第五期にあたります。東海道五十三次の版ごとの違いは東海道五十三次の版の見分け方にまとめています。
二代広重は鈴木氏、俗称は鎮平。文政9年(1826年)生まれで、初代の門人です。はじめ画名を重宣といい、幽斎と号しました。初代の養女お辰(後妻お安の連れ子)を妻として師の女婿となり、師の没後の安政6年(1859年)に二代一立斎広重の名を継ぎました。慶応元年(1865年)、事情があって安藤家を去り、画名を喜斎立祥と改めます。横浜に住んでいた頃には、海外へ輸出する茶箱に貼る木版画を描きました。
作品は風景と花鳥が多く、井上は「名所江戸百景」のうちの「赤坂桐畑」と、文久元年(1861年)版の「隅田川八景」(大判竪絵)を傑作として挙げています。安藤家を去ったのちは新橋滝山町に住み、姓を森田(一説に盛田)と改めました。明治2年(1869年)、44歳で没しています。作画期は弘化から慶応です。
「重宣」の署名は二代の安政6年以前、「立祥」の署名は二代の慶応元年以後です。「広重」と署名した二代の作品は、安政6年から慶応元年までの約6年間に限られます。この期間の改印は日付と改の字が一体になった形式で、改印の読み方で年を確かめられます。初代の存命中(安政5年以前)の日付印があれば、二代ではありません。
三代広重は安藤氏、本姓は後藤。生年には二つの説があり、明治17年版『明治画家略伝』は弘化2年(1845年)生まれとし、雑誌『日本及日本人』の記事は天保13年(1842年)生まれとします。井上は、辞世の「汽車よりも早い道中すご六は目の前を飛ぶ五十三次」から年齢を逆算して天保13年説を採りました。深川の船大工の子で、安政4、5年頃(16、17歳)に浮世小路の会席料理店 百川の養子になったと伝えられます。
はじめ重寅の名を与えられ、のちに重政と改めました。慶応元年(1865年)、同門の二代広重が安藤家を去ると、それに替わって師家を継ぎ、初代の俗称(徳兵衛)と一立斎の号を襲って、自ら「二代広重」と名乗りました。実際には三代です。まれに落款を「歌重」とした例もあります。明治9年10月には中橋大鋸町、明治11年には京橋弓町、明治12、13年には南紺屋町に住み、明治27年(1894年)3月28日に53歳で没しました。作画期は文久から明治です。井上は、三代の作品は明治文化の資料として見るべきものが多いと評しています。
明治初年の木版画の色(強い紫と洋紅)については明治初期の版画の見分け方で解説しています。三代広重の東京名所絵は、この時期の色と紙で見分けられます。
| 初代広重 | 二代広重 | 三代広重 | |
|---|---|---|---|
| 生没 | 寛政9年(1797年)〜安政5年(1858年)9月6日、62歳 | 文政9年(1826年)〜明治2年(1869年)、44歳 | 天保13年(1842年、弘化2年説あり)〜明治27年(1894年)3月28日、53歳 |
| 姓・俗称 | 安藤氏(本姓田中)、徳兵衛 | 鈴木氏、鎮平。のち森田(盛田) | 安藤氏(本姓後藤)、徳兵衛を襲用 |
| 初名 | (入門時から広重) | 重宣 | 重寅、のち重政 |
| 「広重」を名乗った期間 | 文化8年(1811年)〜安政5年(1858年) | 安政6年(1859年)〜慶応元年(1865年) | 慶応元年(1865年)〜明治27年(1894年) |
| 号 | 一遊斎→一幽斎→一立斎(天保2年晩夏以後)→立斎(嘉永3年頃以後) | 幽斎、二代一立斎、のち喜斎立祥 | 一立斎を襲用。まれに歌重 |
| 作画期(井上の記載) | 文化〜安政 | 弘化〜慶応 | 文久〜明治 |
| 代表作・画題 | 東海道五十三次、木曾街道、六十余州名所図会、名所江戸百景 | 隅田川八景(文久元年)、名所江戸百景「赤坂桐畑」、絵本江戸土産 第10編、輸出茶箱の木版画 | 明治の東京名所、開化の風俗(明治文化史料) |
当店では、次の順に確認しています。
初代の揃物に二代の図が交じっていることがあります。「名所江戸百景」の「赤坂桐畑」は二代の筆、『絵本江戸土産』の第10編も二代の筆です。初代の没後に出された後摺りも、署名は「広重」のままです。揃物の査定では1枚ずつ改印と摺りを見て、初摺・後摺・二代の図を分けて評価します。二代・三代の作品も、保存状態と摺りがよければ買取の対象です。
どの広重か分からなければ、写真で確認します
画面全体と、署名・画面の隅の印の拡大写真を送っていただければ、初代・二代・三代のどれか、版の時期、買取の目安を査定担当が確認してお返事します。額に入ったままでも構いません。
査定料・相談料は無料です。売るかどうかは査定額を見てからお決めください。お断りいただいても費用はかかりません。
「広重」とだけ署名があります。初代ですか?
署名だけでは決まりません。二代広重は安政6年(1859年)から慶応元年(1865年)まで「広重」を名乗り、三代広重は慶応元年から明治27年(1894年)まで「広重」を名乗りました。画面の隅の改印の形式、号(一幽斎・一立斎・立斎)、画題(明治の東京名所や開化絵は三代)をあわせて判断します。
「一立斎広重」とあれば初代ですか?
一立斎は初代が天保2年(1831年)晩夏以後に用いた号ですが、二代は安政6年に「二代一立斎広重」を継ぎ、三代も慶応元年から一立斎を襲用しました。一立斎だけでは三人の区別はつきません。改印の日付で絞り込みます。
二代・三代広重の作品に価値はありますか?
あります。二代の「隅田川八景」(文久元年)は『浮世絵師伝』が傑作として挙げており、三代の明治の作品は明治文化の資料として見るべきものが多いと記されています。初代と同じ基準では評価できませんが、保存状態と摺りがよければ買取の対象になります。
「名所江戸百景」はすべて初代の作ですか?
『浮世絵師伝』は、「名所江戸百景」のうち「赤坂桐畑」を二代広重の作として挙げています。また『絵本江戸土産』の第10編も二代の筆です。初代の晩年の揃物には、二代の手が入った図が含まれます。