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明治に入ってすぐの木版画には、江戸時代の浮世絵には無かった強い紫色が目立ちます。石版画家で浮世絵の収集家でもあった織田一磨は、1926年の『浮世絵十八考』で、この紫がいつから使われたかを作品の年代から追っています。その観察を、明治の版画を査定するときの目安として整理しました。
結論
織田一磨は、明治初年の木版画の特色は紫色で、徳川時代の浮世絵には全く見られない色だと述べています。元治元年(1864年)の貞秀『万象写真図譜』と明治3年(1870年)の仮名垣魯文『西洋道中膝栗毛』にはまだ無く、明治4年(1871年)の芳虎「東京八景之内」には既に使われていることから、明治4〜5年頃に紫の顔料が木版に取り入れられたと推測しています。紫が強いと紅(洋紅)も強くなり、緑・鼠・黄もそれに合わせて変わります。清親・暁斎・芳年・柳村・貞信も画面に紫を加えており、この紫と洋紅が出ていれば、明治以降の摺りと見る手がかりになります。
色の見分けに自信がなくても、写真で時期を確認します
作品全体の写真と、紫や赤が出ている部分に寄った写真を送っていただければ、制作時期と買取の目安を査定担当が確認してお返事します。額に入ったままでも構いません。
査定料・相談料は無料です。売るかどうかは査定額を見てからお決めください。お断りいただいても費用はかかりません。
この記事の内容
出典は、織田一磨『浮世絵十八考』(春陽堂、1926年)の「明治初年の版画と紫色」と「小林清親の版画」の章、および巻頭の挿絵解説です。織田一磨(1882–1956)は自画石版の創作版画家で、浮世絵の収集と研究でも知られ、同書は雑誌に発表した評論を集めたものです。 原本は国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧できます(147〜150コマ、挿絵解説は7〜8コマ)。織田一磨の著作は日本では著作権の保護期間が満了しています。
織田は、明治初年の版画には江戸時代に無かった紫色があり、「初年気分」が色にあるとすればこの紫だと書いています。徳川時代に発明されたという「紫絵」とは別物で、昔の紫が上品で曖昧なのに対し、明治初年の紫は明瞭で、織田の言葉では「下劣」なほど強い色です。 紫が強ければ紅色も強くしなければ釣り合わず、緑もそれに伴い、鼠色や黄色も紫に合わせて派手になる、と色の連鎖を説明しています。織田はこの紅を「洋紅色」と呼び、紫と洋紅をあわせて明治初年の木版画の特色としています。
一方で、明治初年には木版のほかに、一色刷で上品で地味な銅版本が盛んで、児童向けの玩具本にも銅版が使われていました。なぜ木版だけが強い色を必要としたのかは分からないとした上で、絵師と版元が目新しい紫の顔料に魅せられて採用したのだろう、と織田は推測しています。
織田は、最初に紫を使ったのが明治なのかその前なのか、確実な証拠は無く研究中だと断った上で、手元の作品から次の順に並べています。
ここから織田は、明治4〜5年の交に紫の顔料を木版に利用して新しい色を加える試みがあったのではないか、と推測しています。ただし同年代の他の本や一枚摺に出ていないとは限らない、と留保を付けています。 芳虎の「東京八景」は、巻頭の挿絵解説によると明治4年に九段の燈明台ができたときに出版されたもので、題名に英字を書き込んだ文明開化らしい作品です。
織田は、清親も暁斎も芳年も柳村も貞信も、この紫を宝玉のように自分の版画に鏤めていると書いています。ごく一部に紫を加えた版画には面白味があるが、多量に使ったものは面白くない、というのが織田の評価です。 広重の時代の藍色、豊春の丹色、春信の鼠色と同じように、明治の木版画家は紫を絶やしたことがなく、他の色の調和を崩しても紫だけは捨てなかった、とも述べています。
明治の浮世絵師では、月岡芳年、楊洲周延、小林清親の作品を当店で買取しています。江戸期の色の変遷は浮世絵版画の技法と年代と藍摺の浮世絵とはにまとめています。
織田によると、清親は弘化4年(1847年)江戸生まれで、是真・椿岳・暁斎らに師事し、英国人ワーグマンに洋画の方法を習得したのち、明治7〜8年頃に放浪生活を打ち切って東京に住み、横絵の「東京名所」百余枚の版画を残しました。挿絵解説では、「二重橋之図」を明治9年出版の初期作としています。 清親は玩具のような版画の域から自分の芸術を脱していながら、紫色だけは画面に残した、と織田は書いています。つまり清親の光線画でも、紫の有無は明治初年の作であることの目印になります。
織田は清親の東京名所を、相当な用紙と摺りを用意して贅沢に出版したものと評価し、同じ時期の三代広重や芳虎の東京名所絵が、安い紙と粗い摺りの土産絵として作られたのと対比しています。清親の査定で紙と摺りを重く見る理由はここにあります。
| 年代 | 作品・資料 | 紫の使用(織田の観察) |
|---|---|---|
| 元治元年(1864年) | 玉蘭斎貞秀『万象写真図譜』 | まだ使われていない |
| 明治3年(1870年) | 仮名垣魯文『西洋道中膝栗毛』 | まだ使われていない |
| 明治4年(1871年) | 歌川芳虎「東京八景之内」 | 既に使われている |
| 明治初年 | 芳幾「東京日日新聞」(新聞錦絵) | 強い紫が盛んに使われている |
| 明治9年(1876年)〜 | 小林清親「東京名所」(二重橋之図など百余枚) | 紫だけは画面に残る。紙と摺りは上質 |
| 明治初年 | 暁斎・芳年・柳村・貞信の版画 | 一部に紫を加える |
画面に明瞭で強い紫と、それに釣り合う強い赤(洋紅)が出ていれば、明治以降の摺りと見る手がかりになります。江戸時代の絵師の図柄であっても、この紫が出ている1枚は、明治になってから摺られた後摺や、明治の版元による再版の可能性があります。 逆に、紫が無いことだけで江戸の摺りとは決められません。織田自身も紫の起源は研究中としており、作品によって使い方は異なります。当店では色に加えて、紙・摺り・印、そして改印の有無をあわせて確認します。明治の版画も買取の対象ですので、「新しいから値が付かない」と決めずにお送りください。
色の見分けに自信がなくても、写真で時期を確認します
作品全体の写真と、紫や赤が出ている部分に寄った写真を送っていただければ、制作時期と買取の目安を査定担当が確認してお返事します。額に入ったままでも構いません。
査定料・相談料は無料です。売るかどうかは査定額を見てからお決めください。お断りいただいても費用はかかりません。
紫が強い浮世絵は偽物ですか?
偽物ではありません。織田一磨は、強い紫と洋紅が明治初年の木版画の特色で、清親・暁斎・芳年らも使っていたと書いています。紫の有無は制作時期を見るための手がかりで、真贋の判定とは別です。明治の版画も買取の対象です。
江戸の絵師の作品なのに紫が出ています。なぜですか?
江戸時代の図柄でも、版木が残っていれば明治になってから摺り足されることがありました。織田によると紫の顔料は明治4〜5年頃から木版に使われたと推測されるため、紫が出ている1枚は明治の後摺や再版の可能性があります。紙と摺りをあわせて確認します。
紫が使われ始めたのは正確にいつですか?
織田は確実な証拠は無く研究中だと断っています。手元の作品では、明治3年(1870年)の『西洋道中膝栗毛』には無く、明治4年(1871年)の芳虎「東京八景之内」には既にあることから、明治4〜5年頃と推測しています。
小林清親の作品も紫で時期が分かりますか?
織田は、清親が玩具のような版画の域を脱していながら紫だけは画面に残した、と書いています。明治9年頃からの東京名所の時期の作には紫が見られます。清親は紙と摺りが上質な点も評価の対象になります。写真を送っていただければ確認します。