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葛飾北斎は、春朗から画狂老人卍まで、生涯に画号を何度も変えました。号ごとに使った時期が分かっているため、落款に書かれた号を読めば制作時期をおおよそ絞れます。浮世絵研究家の井上和雄が1931年に『浮世絵師伝』でまとめた改名・改号の年表を、査定で使う形に整理しました。
結論
井上和雄『浮世絵師伝』は、北斎の画名と別号を20種類挙げ、それぞれの使用期間を示しています。大きな区切りは、春朗(安永8年〜寛政6年)、宗理(寛政8年〜10年)、北斎(寛政11年〜文政2年)、戴斗(文化8年〜文政2年)、為一(文政3年〜天保5年)、画狂老人卍(天保5年〜嘉永2年)です。ただし春朗・宗理・辰政・画狂人・戴斗の5つの号は後に門人へ譲られているため、これらの落款は北斎本人ではない可能性もあります。号・書きぶり・画風をあわせて判断します。
落款の号が読めなくても、写真で時期を確認します
作品全体と、落款に寄った写真を送っていただければ、号・制作時期・買取の目安を査定担当が確認してお返事します。額に入ったままでも構いません。
査定料・相談料は無料です。売るかどうかは査定額を見てからお決めください。お断りいただいても費用はかかりません。
この記事の内容
出典は、井上和雄編『浮世絵師伝』(渡辺版画店、1931年)の「北斎」の項です。井上和雄(1889–1946)は浮世絵研究家で、同書は浮世絵師を五十音順に集めた伝記辞典です。北斎の項には、改名と改号の年代を番号付きで並べた一覧があり、そのまま年代判定の基準として使えます。 原本は国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧できます(132〜135コマ)。井上和雄の著作は日本では著作権の保護期間が満了しています。
井上の記述によると、北斎は宝暦10年(1760年)9月に生まれ、嘉永2年(1849年)4月18日に90歳で亡くなりました。生まれは本所割下水で、当時は下総国葛飾郡に属していたことから、後に「葛飾」を画姓にしました。 14〜15歳の頃に彫師について木版の彫刻を学び、19歳の安永7年(1778年)にその仕事をやめて勝川春章に入門します。版画の最初の作品は安永8年(1779年)8月に描いた細判の役者絵で、岩井半四郎と市川門之助の2図が現存するとしています。
「春朗」は師の春章から与えられた画名で、同時に「勝川」の画姓も許されました。井上は、春朗の名を寛政年間まで使い、一度改名してからは画名と別号を何度も変えたと書いています。
『浮世絵師伝』が示す改名・改号の一覧を、使用期間の西暦を添えて並べ替えました。番号は原典の順です。
| 番号 | 号 | 使用期間(原典) | 西暦の目安 |
|---|---|---|---|
| 1 | 春朗(しゅんろう) | 安永8年〜寛政6年 | 1779〜1794年 |
| 2 | 群馬亭 | 天明5年〜寛政6年 | 1785〜1794年 |
| 3 | 宗理(そうり) | 寛政8年〜寛政10年 | 1796〜1798年 |
| 4 | 百琳宗理 | 寛政8年〜寛政9年 | 1796〜1797年 |
| 5 | 北斎宗理 | 寛政10年 | 1798年 |
| 6 | 可候(かこう) | 寛政10年〜享和3年 | 1798〜1803年 |
| 7 | 北斎 | 寛政11年〜文政2年 | 1799〜1819年 |
| 8 | 不染居北斎 | 寛政11年 | 1799年 |
| 9 | 辰政(ときまさ) | 寛政11年〜文化7年 | 1799〜1810年 |
| 10 | 画狂人 | 享和2年〜文化5年、文化14年 | 1802〜1808年、1817年 |
| 11 | 画狂老人 | 文化2年正月、天保5年〜嘉永2年 | 1805年、1834〜1849年 |
| 12 | 九々蜃 | 文化2年 | 1805年 |
| 13 | 戴斗(たいと) | 文化8年〜文政2年 | 1811〜1819年 |
| 14 | 雷震 | 文化9年〜文化12年 | 1812〜1815年 |
| 15 | 錦袋舎 | 文化年間 | 1804〜1818年 |
| 16 | 月癡老人 | 文政11年 | 1828年 |
| 17 | 為一(いいつ) | 文政3年〜天保5年 | 1820〜1834年 |
| 18 | 不染居為一 | 文政5年 | 1822年 |
| 19 | 藤原為一 | 弘化4年〜嘉永2年 | 1847〜1849年 |
| 20 | 卍(まんじ) | 天保5年〜嘉永2年 | 1834〜1849年 |
査定で最もよく目にするのは、「北斎」「戴斗」「為一」「画狂老人卍」の4つです。「北斎」と「戴斗」は文化8年から文政2年まで重なり、「為一」と「卍」の切り替わりは天保5年(1834年)です。 このほか井上は、戯作者としての名(是和斎・魚仏・群馬亭・時太郎可候・穿山甲など)や、天保5年から弘化4年まで名乗った仮の氏名「三浦屋八右衛門」「百姓八右衛門」も挙げています。
井上は、北斎が旧号を門人に譲った例を次のように整理しています。
つまり、「春朗」「宗理」「辰政」「画狂人」「戴斗」の落款は、年代が合っても北斎本人ではなく門人の作である可能性があります。「辰斎」と「雷斗」の2つは北斎自身が使ったことはなく、最初から門人に与えた号です。 また「菱川宗理」を北斎の前名とする説については、北斎が菱川の画姓を付けた実例はなく、門人の宗二改め宗理と混同したものだろうとしています。 「二代北斎」を名乗った人物も2人いて、一人は文化13年の絵馬に「東都二世鈴木北斎辰政」と署名した者、もう一人は天保13年版の『広益諸家人名録』に「北斎、名辰政、為一翁門人」とある橋本庄兵衛です。
井上は、「北斎」と「辰政」は北斎が信仰した北辰妙見の「北」と「辰」から来たもので、「戴斗」も北斗星にちなむと説明しています。 晩年の落款には年齢を書き添えたものがあり、嘉永3年版の遺稿『画本和漢誉』の巻末には「豆相ノ旅客前北斎改画狂老人卍筆時七十六歳」、天保11年版の一枚摺『唐土一覧図』には「総房旅客画狂老人卍齢八十一」とあります。 天保13年頃の『広益諸家人名録』二編には「画狂、名為一以前北斎行、号画狂老人又名卍、居所不定、中島鉄蔵」と載り、北斎が生涯に93回引っ越したという話と合わせて、井上は「居所不定」の語が実態をよく表していると書いています。
井上が挙げた一枚絵の主なものを、号の時期にあてはめると次のようになります。
富嶽三十六景の初摺と後摺の違いは北斎「富嶽三十六景」の初摺と後摺で解説しています。
井上は画風の変化にも触れています。宗理・可候の時代は美人画に涼しげで美しい描線を用い、戴斗の時代から次第に鋭角的な線になり、たとえば美人の衣装の一部に縮緬の感じを出すためか、震えるような波状の線で描くようになったとしています。 この筆癖は晩年に向かうほど強くなり、世間が「北斎風」と直感するのはこの筆癖によると述べています。落款の号と線の性格が食い違う場合は、確認が必要です。
落款は版木に彫られているため、同じ版木で後年に摺った後摺や、版木を彫り直した復刻にも、元の号がそのまま写ります。号から分かるのは図柄が作られた時期で、手元の1枚が摺られた時期ではありません。 また、上の一覧は1931年時点の研究で、その後の研究で年代が見直されている号もあります。当店では号に加えて、紙・摺り・色と線の性格を確認して査定します。落款の読み方そのものは落款・印章から作家を調べる方法をご覧ください。
落款の号が読めなくても、写真で時期を確認します
作品全体と、落款に寄った写真を送っていただければ、号・制作時期・買取の目安を査定担当が確認してお返事します。額に入ったままでも構いません。
査定料・相談料は無料です。売るかどうかは査定額を見てからお決めください。お断りいただいても費用はかかりません。
落款が「北斎」なら北斎本人の作品ですか?
「北斎」の号は本人が寛政11年から文政2年まで使いましたが、北斎辰政の号は文化13年頃に門人の亀屋喜三郎へ譲られ、「二代北斎」を名乗った人物も2人います。号だけでは決められないため、線の性格、紙、摺りをあわせて確認します。
「画狂老人卍」は誰のことですか?
北斎の晩年の号です。井上和雄『浮世絵師伝』では、画狂老人は天保5年から嘉永2年、卍も天保5年から嘉永2年まで使われたとしています。落款に「七十六歳」「齢八十一」など年齢を添えた例もあります。
「為一」の落款の作品はいつ頃のものですか?
為一は文政3年(1820年)から天保5年(1834年)までの号です。「前北斎為一」のように前の号を添えた書き方もあります。この時期の風景画は特に評価が高く、同じ図柄でも初摺と後摺で差が出ます。
「春朗」の役者絵は価値がありますか?
春朗は北斎が勝川派にいた安永8年から寛政6年までの号で、細判の役者絵が中心です。ただし寛政の末頃に門人の叢豊丸へ譲られているため、本人の作かどうかは画風と時代から判断します。写真を送っていただければ確認します。