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幕末に最も多くの錦絵を残した歌川国貞は、生涯に何度も号を変え、天保15年(弘化元年)には「豊国」を襲名しました。井上和雄編『浮世絵師伝』(1931年)の記述をもとに、落款に書かれた号から制作時期を読む方法と、同じ名を継いだ二代国貞・四代豊国との区別をまとめました。
結論
国貞の落款は、おおむね一雄斎国貞 → 五渡亭国貞 → 香蝶楼国貞(文政末期から) → 豊国(天保15年=弘化元年、1844年春から) → 喜翁の肩書き付き(文久2年、1862年から)の順に変わります。「国貞」の署名なら弘化元年春より前、「豊国」なら以後です。ただし「豊国」は初代・二代・四代も使い、「国貞」は弘化3年(1846年)以降の二代国貞も使います。号と改印をあわせて見れば、どの時期の誰の作かまで絞り込めます。
落款の写真があれば、時期と買取の目安をお伝えします
署名の部分と画面の隅の印の拡大写真、画面全体の写真を送っていただければ、国貞のどの時期の作か、二代国貞・四代豊国でないか、買取の目安を査定担当が確認してお返事します。額に入ったままでも構いません。
査定料・相談料は無料です。売るかどうかは査定額を見てからお決めください。お断りいただいても費用はかかりません。
この記事の内容
出典は、井上和雄編『浮世絵師伝』(渡辺版画店、1931年)の「豊国」初代・二代・三代・四代の項です。井上和雄(1889–1946)は浮世絵研究誌の編集に携わった研究者で、二代豊国の項では七戸吉三の研究に拠ったと明記しています。 原本は国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧できます(113〜114コマ)。井上和雄の著作は日本では著作権の保護期間が満了しています。本記事は同書の記述を現代語で整理し、査定で見る点を加えたものです。
国貞は天明6年(1786年)生まれ。角田氏、俗称は庄蔵(のちに肖造)、家は亀田屋といいました。父の庄兵衛は本所五ツ目の渡船場を営み、俳諧を好んで五橋亭琴雷と号した人で、天明7年に没しています。国貞は幼い頃から絵を好み、師につかずに描いていましたが、初代歌川豊国の門人になって腕を上げました。
最初の仕事は文化3年(1806年、21歳)の黄表紙『七福神屑籠』(十返舎一九作)の挿絵です。錦絵の初作は文化5年(1808年)4月、中村座の「近頃河原の達引」で三代中村歌右衛門が演じた猿廻し与次郎の図で、永寿堂(西村屋与八)から出版されました。以後、毎年おびただしい数の役者似顔絵を描き、歌舞伎の故実にも通じて名声を得ました。
号は三段階で変わります。
このほか月波楼・北梅戸・桃樹園・富眺庵・富望山人・琴雷舎などの号があります。春画には「不器用又平」と落款しました。文政12年(1829年)から天保13年(1842年)にかけては柳亭種彦『偐紫田舎源氏』(38編まで)に挿絵を描き、その評判から「源氏絵」と呼ばれる錦絵を数多く出しました。
国貞は本所五ツ目の旧宅から亀戸天神の門前に移り、天保15年(弘化元年、1844年)春、周囲の推薦と本人の希望により、師の名を襲いで「二代目(実は三代)豊国」と改めました。あわせて一陽斎の号を用い、ときには香蝶楼豊国、国貞舎豊国とも落款しています。井上は、すでに二代目を公然と継いでいた一瑛斎(後素亭)豊国を無いものとして「二代目」を自任した態度を批判し、当時の狂歌師(梅屋鶴寿か)が「歌川をうたがはしくも名のりえて二世の豊国偽の豊国」と風刺した歌を載せています。
弘化2年(1845年)に剃髪して俗称を肖造と改め、翌3年には門人の三代国政を娘婿として二代目国貞を名乗らせ、亀戸の家を譲って柳島に隠居しました。富眺庵・富望山人の号は、この家から西南はるかに富士山が望めたことに由来します。文久2年(1862年)、77歳の記念として画名の肩書きに「喜翁」の二字を用い、老いてなお筆をふるい、元治元年(1864年)12月15日に79歳で没しました。墓所は亀戸の光明寺です。
井上は、晩年の作で彫りと摺りに最も力を入れたものとして俳優大首似顔絵を挙げています。万延元年(1860年)に25図、文久2年に2図、文久3年に31図、元治元年に1図、慶応元年(没後出版)に1図、合計60図です。口絵に掲げた「嵐雛助」は78歳、文久3年の作です。同種の大首絵は芳虎も若干描き、明治初年には国周の作が出ました。
享和2年(1802年)生まれ、俗称源蔵。文政の初めに初代豊国に入門し、一龍斎豊重と号しました。文政7年頃に師の夫婦養子となり、「豊国伜豊重画」と落款した作はこの頃のものです。文政8年(1825年)、師の没後すぐに家を継ぎ、同年3月に二代目豊国を襲名しました。24歳でした。別号は一陽斎(文政11〜12年)、一瑛斎(文政11年頃)、後素亭(文政11年頃〜天保5年頃)、満穂庵(天保4、5年頃)です。井上は、二代の技は伝えられるほど拙くはなく、唯一の風景画「名勝八景」(天保初期)は出色の作だと評しています。天保5、6年以後は作品が見られず、没年は未詳です。
文政6年(1823年)生まれ、幼名政吉、のち清太郎。三代豊国の門人で、はじめ三代国政を名乗り、梅堂と号しました。弘化3年(1846年)に師の娘婿となって二代国貞の名を継ぎ、一寿斎・梅蝶楼と号します。明治3、4年頃にさらに三代(実は四代)豊国となり、香蝶楼・一陽斎・宝来舎などと号しました。師の亀戸の旧居に住み、明治13年(1880年)7月20日に58歳で没しています。
「一陽斎」「香蝶楼」は三代豊国だけの号ではありません。一陽斎は二代豊国も四代豊国も使い、香蝶楼は四代豊国も使っています。「一陽斎豊国」「香蝶楼豊国」の落款は、改印の年と画風をあわせて誰の作かを決めます。明治の年号が読める改印があれば四代です。
| 落款・号 | 誰の作か | 時期 | 『浮世絵師伝』の記述 |
|---|---|---|---|
| 一雄斎国貞 | 国貞(三代豊国) | 初期 | はじめの号 |
| 五渡亭国貞 | 国貞(三代豊国) | 一雄斎の次、文政末期まで | 蜀山人の撰。五ツ目の渡し場の意 |
| 香蝶楼国貞 | 国貞(三代豊国) | 文政末期〜弘化元年(1844年)春 | 英一珪の門に入って以後の別号 |
| 不器用又平 | 国貞(三代豊国) | 春画 | 春宵秘戯図に用いた落款 |
| 豊国、一陽斎豊国、香蝶楼豊国、国貞舎豊国 | 三代豊国 | 弘化元年(1844年)春〜元治元年(1864年) | 天保15年春に襲名。一陽斎を併用 |
| 喜翁豊国(肩書きに喜翁) | 三代豊国 | 文久2年(1862年)〜元治元年 | 77歳の記念に肩書きとして用いた |
| 豊国伜豊重 | 二代豊国 | 文政7年頃〜文政8年 | 夫婦養子となった頃の落款 |
| 一瑛斎豊国、後素亭豊国、満穂庵豊国 | 二代豊国 | 文政8年(1825年)〜天保5、6年頃 | 二代目襲名以後の別号 |
| 二代国貞、一寿斎国貞、梅蝶楼国貞 | 二代国貞(のち四代豊国) | 弘化3年(1846年)〜明治3、4年頃 | 師の娘婿となり二代国貞を継ぐ |
| 豊国(明治の改印)、宝来舎豊国 | 四代豊国 | 明治3、4年頃〜明治13年(1880年) | 三代(実は四代)豊国を名乗る |
当店では、次の順に確認しています。
国貞の作品は数が多く、役者絵は1枚ずつでは評価が伸びにくい一方、三枚続が揃ったもの、源氏絵の揃い、五渡亭時代の美人画、晩年の大首絵は別の基準で見ます。落款の読み方そのものは落款・印章から作家を調べる方法にまとめています。
落款の写真があれば、時期と買取の目安をお伝えします
署名の部分と画面の隅の印の拡大写真、画面全体の写真を送っていただければ、国貞のどの時期の作か、二代国貞・四代豊国でないか、買取の目安を査定担当が確認してお返事します。額に入ったままでも構いません。
査定料・相談料は無料です。売るかどうかは査定額を見てからお決めください。お断りいただいても費用はかかりません。
「国貞」と「豊国」の落款は同じ人ですか?
同じ人の場合が多いです。歌川国貞は天保15年(弘化元年、1844年)春に豊国を襲名し、以後は「豊国」と署名しました。ただし「二代国貞」(弘化3年以降の娘婿)や、初代豊国・二代豊国・四代豊国の「豊国」もあるため、号と改印をあわせて確かめます。
「香蝶楼国貞」とあれば、いつ頃の作品ですか?
香蝶楼は文政末期に英一珪の門に入ってから用いた号です。「香蝶楼国貞」は文政末期から豊国を襲名する弘化元年(1844年)春までの作品です。それより前の「五渡亭国貞」は大田南畝(蜀山人)に選んでもらった号で、井上和雄は五渡亭時代の美人画を後年の作より芸術的価値が高いと評価しています。
「喜翁」と書かれた豊国の作品は何ですか?
三代豊国が文久2年(1862年)、77歳の記念として画名の肩書に付けた二字です。喜翁の肩書がある作品は文久2年から元治元年(1864年)12月の没までの最晩年の作です。この時期の俳優大首似顔絵は彫りと摺りに最も力を入れた作として『浮世絵師伝』が挙げています。
明治の年号の改印がある「豊国」の作品は誰のものですか?
三代豊国は元治元年12月に没しているため、明治の作品は四代豊国(二代国貞)です。四代は明治3、4年頃に三代(実は四代)豊国を名乗り、香蝶楼・一陽斎・宝来舎などと号しました。明治13年(1880年)に58歳で没しています。