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「歌麿」の落款がある錦絵のすべてが、美人画で名高い初代の作ではありません。初代の没後すぐに門人が二代歌麿を名乗り、師の晩年によく似た美人画を数多く出しました。1931年に井上和雄が『浮世絵師伝』にまとめた歌麿の項を、査定で見る点を加えて整理しました。
結論
『浮世絵師伝』によると、初代歌麿は宝暦3年(1753年)生まれ、文化3年(1806年)9月20日没(54歳)で、鳥山石燕の門人です。画名は初め豊章で、天明2年(1782年)頃から歌麿に改めました。技巧が円熟するのは寛政4、5年(1792、93年)頃です。初代の没後、門人が間もなく二代歌麿を名乗り、師の晩年に酷似した美人画を出しました。両者は錦絵の検印で分け、「寅九」(文化3年9月)を境に、それ以前を初代、以後を二代と見ます。検印が無いものは画風と落款を比べます。
歌麿の落款がある作品は、写真で確認します
作品全体と、落款・検印に寄った写真を送っていただければ、初代か二代か、当時の摺りか後年の復刻かの見当と、買取の目安を査定担当が確認してお返事します。3枚続の一部だけでも構いません。
査定料・相談料は無料です。売るかどうかは査定額を見てからお決めください。お断りいただいても費用はかかりません。
この記事の内容
出典は、井上和雄編『浮世絵師伝』(渡辺版画店、1931年)の「歌麿」の項です。同書は浮世絵師を五十音順に並べた人名辞典で、新版画の版元である渡邊庄三郎の店から出版されました。原本は国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧できます(51〜53コマ)。井上和雄(1946年没)の著作は日本では著作権の保護期間が満了しています。 年齢は同書の記載に従います。本文の西暦は当店が補いました。
同書によると、初代歌麿は源姓で、北川(後に喜多川とも書く)を名乗りました。名は信美、幼い頃の呼び名は市太郎、後に勇助、さらに勇記と改めています。一説には武州川越の生まれで、早くに父を失い、少年時代に母と江戸へ来たといいます。鳥山石燕に師事し、画名は豊章でした。天明2年(1782年)頃から歌麿と改め、旧名はわずかに印章などに使いました。 別の号に石要・木燕・燕岱斎・紫屋があり、狂歌名は筆の綾丸です。
住まいは初め忍ヶ岡で、通油町の版元、蔦屋重三郎の店に寄寓したこともあり、後に神田久右衛門町、馬喰町三丁目、神田弁慶橋などへ移りました。蔦屋は同書によると天明3年9月に吉原五十間道から通油町へ移っています。写楽の版元でもある蔦屋については写楽の役者絵の見分け方にも書きました。
同書は、処女作と認められるものは不明としたうえで、早い例を次のように挙げています。落款が「豊章」の時代の作です。
同書はこの頃の作を、画風がまだ定まらない時代の好例と評しています。天明年間に入って特徴が表れ、寛政4、5年頃に技巧がさらに円熟し、その前後に傑作を多く出した、という流れです。
同書が最も優れた作として挙げる錦絵を、時期別に示します。題名の表記は同書のままで、ほかにも佳作は少なくないと断っています。
寛政中期の黄地大判の錦絵「男女虚無僧姿の図」には、傍らに「故人春信図」と明記があり、同書は先輩の春信をひそかに畏敬していた例として挙げています。一方で作品に「人まねきらい、しきうつしなし、自力画師歌麿が筆に」と刻んだ例も引き、自負心の強さを伝えています。判型の呼び名は浮世絵の判型とサイズ一覧にまとめています。
絵本は刊年が分かるため、画風の変化を見る物差しになります。同書の挙げる主なものは次のとおりです(「?」は同書の表記のままです)。
同書は『絵本虫撰』と『汐干のつと』の写生の努力、『絵本歌まくら』の描写の精緻さを特に評価しています。『吉原青楼年中行事』では作者の十返舎一九と功を争ったようだとも記しています。絵本のほか、黄表紙20余種、洒落本数種、小咄本の挿絵、肉筆画も残ります。
同書は技巧の優れた点のうち、特筆すべきものとして二つを挙げます。寛政前半期の作に見える雲母の応用と、同じ時期の細絵の両面摺(「難波屋おきた」「高島おひさ」の2図)です。おきた・おひさは江戸の水茶屋の評判娘で、同書は春信の好画題だった笠森お仙・柳屋お藤と並べています。
文化元年(1804年)、歌麿は「太閤洛東五妻遊観」(3枚続)を描いて罪に問われ、入牢と手鎖の刑を受けて心身に打撃を受け、それから幾年もせずに世を去りました。法名は秋円了教信士で、浅草北松山町の専光寺(浄土宗)に葬られました。 墓の所在が分からなくなりかけたところを武田信賢が確認し、橋口五葉と星野日子四郎の呼びかけで有志を募って、大正6年(1917年)10月に墓碑が再建されました。井上は、この項は両氏の研究に多くを負っていると記しています。
二代歌麿は喜多川を称し、俗称は鉄五郎、別号は梅雅堂、馬喰町一丁目に住みました。初め恋川春町に戯作を学び、恋川幸町の名で黄表紙5、6種を作り(天明7年〜寛政7年)、師の没後に二代目春町を襲名します。それ以前に初代歌麿の門に入って絵を学び、画名も戯作名と同じく春町と称したようです。
文化3年9月に初代が没すると、間もなく二代歌麿を名乗り、画風が師の晩年に酷似した美人画の錦絵を数多く出しました。同書は、早く入門した腕の優れた門人もいたはずなのに彼が師名を継いだのは不審だとして、『新増補浮世絵類考』の「故歌麿ノ妻ニ入夫セシ也」「錦絵アレドモ拙キ方」という記述を引いています。二代としての作画期は、文化3年以後13年(1816年)までは確証があり、それ以後は不明です。
同書は、初代の晩年の作と二代の襲名当時の作が世間でしばしば混同されていると指摘し、区別の方法を示しています。
読み方の例:「寅」は文化3年の干支、「九」は9月です。「辰」は文化5年の干支、「六」は6月です。検印の種類と時代ごとの変化は浮世絵の改印で年代を読むをご覧ください。
同書には、もう一人の「歌麿」も載っています。肉筆美人画に「栄文菅原利信」の落款と「喜多川」「自成一家」の両印を持つものと、同じ印で「喜多川歌麿筆」の落款を持つものがあり、栄之の門人の栄文が別に「歌麿」を自称した証拠とされています。作画年代は文化末期とみられ、同書は藤懸静也がこれを「三代歌麿」として紹介した例に触れつつ、襲名したかは不明なので、仮に「別人歌麿」として収めています。肉筆の「歌麿」は、この例も念頭に置いて確認します。
| 落款・目印 | 時期 | 見方(井上和雄の記述) |
|---|---|---|
| 北川豊章 | 安永5年〜天明2年頃 | 歌麿を名乗る前の画名。旧名は後にも印章などに使う |
| 歌麿(改名) | 天明2年(1782年)頃〜 | 天明年間に特徴が表れる |
| 雲母地 | 寛政前半期 | 難波屋おきた、歌撰恋の部、婦女人相十品など |
| 黄地 | 寛政後半期 | 青楼十二時、娘日時計、北国五色墨など。男女虚無僧姿の図は寛政中期の黄地大判 |
| 正銘歌麿 | 寛政後半期 | 五人美人愛敬競、青楼七小町 |
| 検印「寅九」まで | 文化3年(1806年)9月以前 | 初代の作と見る |
| 検印「寅九」より後 | 文化3年9月以後〜13年 | 二代の作と見る。例:「辰六」=文化5年6月 |
| 喜多川歌麿筆(肉筆) | 文化末期 | 「喜多川」「自成一家」の両印なら別人歌麿(栄文) |
「寅九」の月ちょうどの作は、同書の書き方では境目そのものです。この月の検印がある作品は、画風と落款を合わせて判断します。
歌麿の査定でまず確かめるのは、江戸期の摺りか後年の復刻かです。紙・摺り・色の見方は浮世絵の見分け方(本物・後摺・復刻・印刷)をご覧ください。当時の摺りであれば、次に検印を読み、初代か二代かを確かめます。「歌麿」の字だけでは世代を決められません。 雲母地や黄地の背景は時期の手がかりですが、それだけで判断せず、落款・検印・版元名を合わせて見ます。3枚続などの続き物は揃いかどうかで評価が変わりますが、1枚でも買取の対象です。買取相場は喜多川歌麿の版画買取をご覧ください。
歌麿の落款がある作品は、写真で確認します
作品全体と、落款・検印に寄った写真を送っていただければ、初代か二代か、当時の摺りか後年の復刻かの見当と、買取の目安を査定担当が確認してお返事します。3枚続の一部だけでも構いません。
査定料・相談料は無料です。売るかどうかは査定額を見てからお決めください。お断りいただいても費用はかかりません。
「歌麿」の落款があれば初代の作ですか?
初代とは限りません。文化3年(1806年)9月に初代が没すると、門人が間もなく二代歌麿を名乗り、師の晩年に酷似した美人画を出しました。井上和雄編『浮世絵師伝』は、検印「寅九」(文化3年9月)を境に、それ以前を初代、以後を二代と認めるとしています。
「豊章」と署名された作品は歌麿ですか?
『浮世絵師伝』によると、豊章は歌麿の前の画名で、天明2年(1782年)頃に歌麿と改めました。安永5年(1776年)の一枚摺に「北川豊章書」の落款があります。旧名は後にも印章などに使われています。
検印が読めない、または見当たりません。査定できますか?
できます。検印の無いものは画風と落款を比べて区別します。作品全体と落款まわりの写真をお送りください。読めない場合も査定担当が確認します。
3枚続のうち1枚しかありません。査定できますか?
できます。揃いの方が高く評価されますが、1枚でも買取の対象です。図柄と状態を写真で確認してお返事します。