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月岡芳年の明治の錦絵は、号・刊年・画工の住所から年代を絞れます。「年」の字で始まる門人の作と混同されることもあります。1931年に井上和雄が『浮世絵師伝』にまとめた芳年と門人の項を、査定で見る点を加えて整理しました。
結論
『浮世絵師伝』によると、芳年は天保10年(1839年)3月17日生まれ、明治25年(1892年)6月9日没(54歳)で、嘉永3年(1850年)12歳で国芳に入門しました。別号は玉桜楼・一魁斎・魁斎・咀華亭です。明治5、6年頃に強度の神経衰弱にかかり、明治6年(1873年)末に全快した時から「大蘇」の号を使い始めました。「大蘇」の落款は明治6年末以後の目印になります。代表作の『月百姿』は明治18〜24年版、『風俗三十二相』は明治21年版です。門人は年方・年恒・年英らで、「年」の字で始まる落款は芳年本人ではありません。
落款が読めなくても、写真で年代と相場を確認します
作品全体と、落款・欄外の文字に寄った写真を送っていただければ、出版時期の見当と買取の目安を査定担当が確認してお返事します。揃物の1枚だけでも、3枚続の一部だけでも構いません。
査定料・相談料は無料です。売るかどうかは査定額を見てからお決めください。お断りいただいても費用はかかりません。
出典は、井上和雄編『浮世絵師伝』(渡辺版画店、1931年)の「芳年」の項と、門人の項です。同書は浮世絵師を五十音順に並べた人名辞典で、新版画の版元である渡邊庄三郎の店から出版されました。原本は国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧できます(芳年は151〜152コマ、門人は110〜111コマ)。井上和雄(1946年没)の著作は日本では著作権の保護期間が満了しています。 年齢は同書の記載に従います。本文の西暦は当店が補いました。
同書によると、父の名には吉岡兵部・吉岡金三郎・吉岡織三郎・月岡為三郎の4説があります。門人の山中古洞の説では、戸籍には吉岡織三郎の次男とあるものの、実は吉岡金三郎(後に兵部と改める)の次男です。俗称は米次郎で、嘉永3年(1850年)、12歳の時に国芳に入門しました。
同書の作品一覧の最初に挙がる錦絵は「文治元年平家の一門亡海中落入る図」3枚続で、嘉永6年(1853年)版、芳年15歳の作です。師の国芳については歌川国芳の号と落款で年代を読むにまとめています。
年代を絞る手がかりとして最も分かりやすいのは「大蘇」です。この号のある作品は、明治6年末以後と見当がつきます。法名も大蘇院釈芳年居士で、同書の肖像の題にも「大蘇芳年」とあります。一方、「一魁」は明治5年版の「一魁随筆」の題にも見えますが、一魁斎の号をいつまで使ったかは同書に書かれていません。落款の読み方と撮り方は落款・印章から作家を調べる方法をご覧ください。
同書は、錦絵の作は数え切れないとしたうえで、著名なものを次のように挙げています。
画風について同書は、早くから菊池容斎の画風を慕って歴史上の人物を得意とし、洋画を折衷して新機軸を出し、錦絵・草双紙のほか新聞の挿絵でも評判を得たと記しています。明治の錦絵に特有の色は明治初年の版画の紫と洋紅で解説しています。
『月百姿』の完結は、同書では明治24年版までですが、明治25年(1892年)とする説明もあります。
同書の門人の項には、明治の錦絵に画工の住所が摺られた例が出てきます(年方の「神田区東紺屋町五番地」、山崎年信の西南戦争の錦絵など)。芳年の作品に住所がある場合、次の居所と突き合わせると時期の手がかりになります。
同書によると、芳年は須賀町の家の家相が悪いと聞いて日本橋浜町に新築しようとし、その間、本所亀沢町に仮寓しました。その後、不幸が重なって精神に異常を来し、療養の効果が上がらないまま、いったん病院を退いて間もなく亀沢町の仮寓で没しました。法名は大蘇院釈芳年居士で、東大久保の専福寺(抜け弁天)に葬られています。
同書は門人が多かったとし、中でも年方・年恒・年英が最も著名だと記します。師の「年」の字を受けた画名のため、落款の1字目で師弟を取り違えないよう注意します。同書の項目から主な門人を挙げます。
| 時期 | 年齢 | 出来事・号(井上和雄の記述) |
|---|---|---|
| 天保10年(1839年)3月17日 | - | 生まれる。俗称 米次郎 |
| 嘉永3年(1850年) | 12歳 | 国芳に入門 |
| 嘉永6年(1853年) | 15歳 | 「文治元年平家の一門亡海中落入る図」3枚続 |
| 明治5年(1872年) | 34歳 | 一魁随筆。この年か翌年に神経衰弱にかかる |
| 明治6年(1873年)末 | 35歳 | 全快し、「大蘇」の号を使い始める |
| 明治7年(1874年) | 36歳 | 郵便報知新聞(竪判続刊) |
| 明治11〜15年(1878〜82年) | 40〜44歳 | 大日本名将鑑 51図 |
| 明治18〜24年(1885〜91年) | 47〜53歳 | 月百姿 100枚。明治18年3月に浅草須賀町へ |
| 明治21年(1888年) | 50歳 | 風俗三十二相 |
| 明治25年(1892年)6月9日 | 54歳 | 没。法名 大蘇院釈芳年居士 |
明治の年齢は、同書の「嘉永3年12歳」「没年54歳」と同じ数え方で当店が計算しました。
『月百姿』のような揃物は揃っているほど評価が上がりますが、1図単位でも査定します。年代は落款の号だけで決めず、題名、版元名、欄外の住所を合わせて見ます。 同じ図柄でも初期の摺りと後年の摺りでは色数や版の状態が異なります。見方は浮世絵の見分け方(本物・後摺・復刻・印刷)をご覧ください。買取相場は月岡芳年の版画買取をご覧ください。
落款が読めなくても、写真で年代と相場を確認します
作品全体と、落款・欄外の文字に寄った写真を送っていただければ、出版時期の見当と買取の目安を査定担当が確認してお返事します。揃物の1枚だけでも、3枚続の一部だけでも構いません。
査定料・相談料は無料です。売るかどうかは査定額を見てからお決めください。お断りいただいても費用はかかりません。
「大蘇芳年」の落款は、いつ頃の作品ですか?
井上和雄編『浮世絵師伝』によると、芳年は明治6年(1873年)末に神経衰弱が全快した時から「大蘇」の号を使い始めました。この号がある作品は明治6年末以後と見当がつきます。
「一魁斎芳年」の落款はいつまで使われましたか?
『浮世絵師伝』は一魁斎を別号として挙げるだけで、使った時期は書いていません。明治5年版の「一魁随筆」の題に「一魁」が見えますが、落款だけで前後を決めず、題名と版元名を合わせて年代を絞ります。
「年方」「年恒」の署名は芳年の作品ですか?
いいえ。年方・年恒・年英などは芳年の門人で、師の「年」の字を受けた画名です。「年信」は山崎年信と二代年信(田口)の2人がいます。門人の作品も買取の対象です。
『月百姿』を1枚だけ持っています。査定できますか?
可能です。揃いでなくても1図単位で査定します。図柄と落款がわかる写真をお送りください。